七日間のスノウ
約束の猫 (立東舎) / 村山 早紀,げみ #読書メーター 『七日間のスノウ』村山早紀先生っていったらコンビニたそがれ堂をはじめとした優しくて満場一致ハッピーエンドのお話ばかり読んできたから、子猫の末路を読んで脳天を鈍器でぶっ叩かれた気分。この結末を回避する方法は? https://t.co/O5f41DNOad
— 林檎の葉 (@2_ringonoha) 2021年5月11日
私は、この話の結末を悲劇だと捉えた。
しかし恐れ多くも、村山早紀先生ご本人から下記の通りリプライをいただいた。
子猫が死んだことで、主人公の女の子は家族を取り戻し、家族は女の子を取り戻したので、救いがないお話じゃないですね。そして、スノウは何度でも女の子のところに戻ってくるので、永遠のお別れではありません。
— 村山早紀 Saki Murayama (@nekoko24) 2021年5月11日
もとは小さい子向けのお話ですよ。
— 村山早紀 Saki Murayama (@nekoko24) 2021年5月11日
みんなが家族と愛し合わなくてはいけないとは思いませんが、できるなら、子どもたちには愛されて幸せでいて欲しいと思っています。憧れみたいなものですね。
どうやら私は、先生が意図した通りの読み方ができなかったようだ。
女の子が家族を、家族が女の子を取り戻すために、子猫は犠牲にならなければいけなかったのだろうか。
そして「そういう話ではない」というご指摘をいただいてもなお、この話を好意的に捉えることができていない。
物語の中でくらい、もっと自由に考えればいいのに。頭が四角いのだろう。
たぶん私の感想は、本屋大賞を受賞するほどの大作家の心を傷つけてしまったのだろう(と考えるのは驕り? 勘違いも甚だしい?)
一方で私自身も、「自分は作者が望む読解ができなかった上に、こんなハナクソ人間のために大作家先生の貴重な時間を奪ってしまった」ことで、自己肯定感が急激に低下している。
しかし、「作者が意図した読み方」とはなんだろうか。メインターゲットから外れた読者が、作者の想定から外れた受け取り方をすることは間違いなのだろうか。
国語の読解問題のように「正解とされる読み方」があるわけではないのだから、「そういう捉え方をする読者もいる」ではダメなのだろうか。
作品が完成して作者の手を離れた瞬間から、解釈の自由は読者側にあると思う。趣味でときどき書き手に回る人間としてもそう思う。
「そういう話ではない」と断言されるほど、私は見当違いの読み方をしたのだろうか。
そうなのだろうな。そうじゃなければ、多忙な作家が私みたいなハナクソにリプライをしたりしない。
作者が望んだ読み方から大きく外れた読み方をした私は、村山早紀先生の読者をやめるべきなのかもしれない。たっぷりの愛情と時間をかけて生み出した作品だもの、望んだ読み方――いわゆる「正解」に辿り着ける読者の方が嬉しいに決まってる。(うつ病患者ならではの、マイナスな出来事を極端に捉える癖が出た)。
村山早紀先生の御本と私の価値観って、相性が悪いのかなあ。悲しい。
五千年ぶんの夜
明るい未来を予期させる終わり方でほっとした。
誕生日プレゼントが「子猫を飼う許可」ってえらすぎる。私ならそれはそれとして、誕生日プレゼント(物理)もねだるわ。