読書記録

読んだ本の感想まとめ。

偽善のトリセツ: 反倫理学講座

面白くて一気読みしてしまった。『13歳からの反社会学』もぜひ読んでみたい。

今まで偽善の概念について考えたことはなかったけど、私は中村光夫の主張が一番しっくりくる。

原始時代ならともかく、現代の文明国では、人間はありのままでは生きられない。ぼくらは自分になにかの粉飾をほどこし、仮面をかぶって生きなければならない。その仮面は、一切の自分よりいいか悪いかだ。つまり人が生きるということは、偽善者か偽悪者のどちらかを選ぶことなのだ。

常に善人でいられる人間はいないし、逆もまた然り。だから事あるごとに偽善だと野次を飛ばす行為は、目糞鼻糞を笑うということでしかないのだろう。
例え裏に何かしらの計算があって、本人にとっては「偽善」だったとしても、その行為を受け取った側が「純粋な善」だと感じたならそれでいいんだよな。

動物には偽善はないし、神にも偽善はない。偽善こそ人間らしさ、もしくは人間臭さの表徴ではないか。

この主張も好きだな。偽善=悪だと目を背けてばかりいたら、それこそ原始時代レベルの生活しか送れなくなってしまう。人間は文明の進化とともに偽善という概念を育ててきたのではないだろうか。

週刊新潮、(今はどうか知らないが)70年代は馬鹿の一つ覚えで偽善偽善と連呼して、自分らの主張を正当化しようとしていたらしい。そしてそういう記事に引っ張られた読者もたくさんいたのだろうなあ……。

極論をいう人たちは、百パーセント正しくてケチのつけようのない行為しか”善” ”正義”と認めないのでしょうね。彼らにとっては、ちょっとでも傷のある善はすべて偽善。つまり極論をいう連中にとっては、よのなかすべてが偽善なんです。

本当に余計なお世話だけど、なんでそんなに自縄自縛してこの世を生きづらくしてるんだろう。前世で親とか殺しちゃって、その刑がまだ続いているんだろうか。

戦争は究極の偽善。人殺しに参加したor戦火の渦中にいた当事者達が偽善を否定したら、それは即自己否定に繋がる。だから50・60年代には偽善を肯定する思想家が多かった。しかし70年代に入ると、戦争を知らない世代も増えてきて(後略)

なるほど、戦争の記憶が人々の価値観を変えたという考察は興味深い。

著者が独善を危険視する考え方は自分も支持したい。真心がこもっていればどんな結果になってもいい、わけではない。独りよがりで、その行為によって傷ついている人の声に耳を塞ぐような人間になったら、それは独善というより悪ではないか。